・問わず語りの気功談義 ⒈

・問わず語りの気功談義 ・

 

 気功の原理は生理学で説明できるか                                                                     山部嘉彦
†科学の証明

昔は、気功を中医学(中国伝統医学)で全部説明していました。中医学からまるで腫れ物のようにはみ出した分野が武術と仙術でした。気を扱うのに「意」を用いる領域があったわけです。
現代生理学では、身体の内部で、力学的物理学的運動が起こっているところではその運動法則に従ってものごとを説明します。化学的変化が起こっているところでは生化学の反応変化の法則によって説明します。
しかし、ご承知のように、気功では心理的変化を重視しますから心理学的な反応変化の法則も取り入れて説明するでしょう。
では、身体内部ではこれらの法則に優劣があるでしょうか。その優劣にも法則秩序があるでしょうか。あるわけないでしょ。現代医学生理学では、そういうことをそもそも問題にしない。それぞれの分野の専門家が、自分の知識と経験で強引に説明しています。

†日本の気功の脆弱性

気功家は、困惑しています。日本の気功は、中医学による説明だけではまったく満足していないために、現代科学(生理学/生化学/脳生理学…)の情報を適当に拝借加工して、中医学と無原則に組み合わせて説明して自己満足しているのが実情です。気功のテキストが千差万別であるのは、以上のような特殊日本的な事情によっています。
気功がイマイチ世間に受け入れらずにいるのは、そのどっちつかずの、ある意味ご都合主義的な、安っぽい説明のしかたにもあるのではないかと思います。
でもそこから脱却することはできるのか。…できるのだったら、とっくにしていますよ。
女性は、そのことにあまりこだわりません。「先生のおっしゃるようにこつこつやったら、私は長年の苦痛から解放されました。気功はいいものだと思っています」と。しかし、学問的に理解したい人、とくにインテリ男は、この安っぽさを気にします。あの、あやしい気功を信じるのかと。やってみてよくなってさえ、どうして治ったのかよく解らないんだよね、とか。

†気のせい、という濁り茶

その極め付きが、それって気のせいじゃない?って。つまり、気功世界には心理的な「誤作動」が混在しているわけです。人間の身体は、物理的法則に則っている。生理学的機序に沿って生存している。生化学的反応に従って薬を飲めばその効果が必ず現われる。…人によって効き目が異なるけれど…。プラシーボ効果って知っていますか。プラセボ効果と言う人もいます。
†プラシーボ効果はこころの力
サバを食べたら蕁麻疹が出て卒倒してしまう子がいる。食べないようにしていたのに、給食で出たのを食べたらこうなっちゃった、とか。そこで実験にかける。こっちのダンゴ①には少しだけどサバの汁を混ぜてある。こっちの②には入っていない。味付けは同じ。減感作療法です。じゃ…と食べてもらって観察する。②は大丈夫、何の反応もない。①では10分も経たないうちにバーーッと蕁麻疹が出る。

これは、事実は①には入っていないが②には入っているわけです。思い込んでいると、こういうことが起きる。これがプラシーボ効果の一例です。人間は《心理的動物》なんだと。ところが、コレ、法則がつかめないのです。人間って面白いね、などと。

厳格なモスリム。豚肉食べてはいけません(ハラム)って。それがイスラム教徒の戒律です。大昔、ムハンマドがダメって言った。豚は人の垂れたクソを食ってるからって(諸説あり)。モスリムはイスラム圏を出て、外国で食事する時は神経を使う。心配なので、ハラルという認証章のついた食品だけを使って料理したり、ハラルのレストランで食べる。
そのレストランで食べた後、具合が急に悪くなって救急車で運ばれた。判ったのは、そのレストランで出された料理の中にごく微量ながら豚肉が混入していた。おお…。

†身体は動物、こころは未熟な人間

どうしてそうなるの?? 人間ってどうしてこう厄介なの、などと。
現代医学(科学)では、説明できません。科学の目で見ると人間の身体は動物なのです。だから、たしかに、動物的と同様の反応を示します。が、私たち人間の身体は人間特有の奇妙な反応も示します。
今回のテーマは、人間のいのち(のはたらき)は、生理学で全部説明できるか。できないのではないか。心理学的なヘンな動きもするぞ。じゃあ、心理学って科学なの??であります。さてさて心理ってそもそも何のこと?  この人間界では、いろいろと説明できないことが起きます。それを起こすことができる人も結構います。そのためもあって、ヘンなことが大好きな人々が、気功がブームになりはじめた時に、続々と気功の周辺に集まってきました。今でも、ヘンな気功家の回りにはヘンな人たちがうろついています。 では、ヘンなこと、ヘンな人とは何なんでしょうか。「ヘン」に共通していることはあるでしょうか。
ところでこの雑文は「問わず語り」なので、問い詰めないというルールに沿って進めていきます。ですから、いい加減に語っていきます。ご承知ください。
気功だから「健康だけ扱ってくれ」と思う人もいるでしょう。そう思っている人には、(中国の)健身気功がよろしいのではありませんか(笑)。

†非常のナラティヴと向き合う

ヘンとはまず異常です。誤作動、というより、いつのまにか常道の理路から外れてしまう感じです。「ふつう、それはありえない」のに「ある」状況です。むろん逆に「ふつう、そうなる」のに「ならない」もあります。
人は、常道から外れることを認めたくありません。常道に縛られているのをよしとして生きています。しかもものごとには例外があることや、起こった時にどう対処すべきか知らずに生きています。知ろうとしないし、常道の「主」は知らせまいとしています。起きても起きなかったことにするし、多くの人も起きなかったと自分を騙します。心の平穏のためです。
しかし、起きますよね。
常道というのは、非常のナラティヴをあらかじめ封じ込む。その非常の最たるものは、人間にとっては死だし、世間にとっては戦争です。死と戦争を避けたい。見たくない。しかし、この二つは身近にぽっかり口を空けて待ち構えている。

†心の力を育む

戦争と死を前にして、人の取りうる道は、大多数はなりゆき。外れるためには、超然として生きるか、仙人になるかです。その点、女には別の選択肢がある。自分の身体に委ねる方法です。そのいずれの道をとったとしても、とるには、心の力が必要です。人はだれでも心の動物なのですが、心の力で突き抜けるには覚悟が必要です。ほとんどの人はその覚悟を満たす心の質も量も持てずに、あこがれの超越と回避によってお茶を濁す。心の力を使えるレベルにまで育てられなかったからです。やはり、心の力を満たすには、訓練を重ねなければならないのです。

†いのちの次元で起きること

さて、ここからが本日の本題です。
ここでいう心の力というのは、〈ないのにある〉と思って発揮する力のことです。物の世界の力は運動があってこそ動く。力が満ちているだけでは動かない。運動の方向と勢いが与えられて動く。「ある」から、ずれた「ある」に変化するわけです。ところが、ものにはもう一つ、「生ずる」と「消滅する」があります。これを成り立たせているのが時間です。《いのちの時間》ですね。この時間の内部では、〈ないのにある〉が実現する。
解りやすい例ではたとえばツボとか丹田とか経絡とか勁道です。ご承知のように、これらは認識学では「現象」と呼ばれているもので、生命もまた一種の現象と捉え返すことができる。生きているときには確かに「ある」けれど、死んでしまえばその残骸しかない。存在を証明できないわけです。ツボや丹田や経絡を駆使して健康になったり病気を克服できるのですが、科学の王たる物理学的見地ではそれらは「ない」ので、それは錯覚でしょ、となる。プラシーボの一種。レッテルは貼られているけれど、科学ではそれがなぜ起きるのか説明できない。偶然のできごと。だから〈あるのにない〉のです。
このとき、あなたはどちらの側に立ちますか。どちらの側に立って生きていきますか。

†心理学という穴場

話のスケールを広げたくはないのですが、ここにイヤらしい学問領域があります。心理学ってヤツですね。心理学をやっている奴らは、偉そうにしているけれども実際自分が何をやっているのか、解っていない。科学者の態度をとって構えているので、目の前の現象を記録することはできます。しかし、なぜソレが起きるのかは解らない。哲学がないの。生命哲学がない。でも、目の前で起きる現象を面白いとは感じる。経験から導かれた仮説としての法則はあるから、それを用いて治療のマネごとはできるけれども、実際には何もできない。臨床心理学のカウンセラーの大半はそういう連中です(偏見デス)。
心理学の最初の偉人は、フロイトとユングでした。この二人は、医師として、いろいろな「異常」を凝視しました。そして、個人において生ずるヘンなことは、個人に原因はないことを確信する。
どうやら、集団(世間)が問題の根っこにあることを察知する。フロイトは歴史をさかのぼって、ユダヤ教にヘンの根があると言った。ユングは集団無意識という概念を発明してそれを根拠に事態を解明しようとした。精神的な病気は個人の病気じゃない、人類の病気だと見抜いた。この二人に比べたら彼らの後継者の仕事なんてチャンチャラですが、どいつもこいつも、外から医者(科学者)としてヘンなことを認識しようとしている。

†気功の主題は何か

翻って、東洋の智慧はどうか。一神教的智慧に比べると、生命現象については、こっちのほうがうんとマトモだけれど、智慧の収斂速度がいかにもトロい。たとえば経絡なんていうのは、2000年以上かけて、まだ諸説入り乱れてグズグズしている。慎重だといえば慎重だけれども、事実として汎用性を欠く。しかし〈ないけれどもある〉もの(経絡とかツボ)を使ってありえない力を発揮することができるわけです。事実として発揮できる。中医学に助けられた人はたくさんいますが、助けられた自分を説明することができない。
ここで、ようやく気功が出てくる。気功は本質的に何をやっているのか。ここまでの与太話でお察しのとおり、気功は〈心の力の訓練〉をしているのですよ。〈ないけれどもある〉ものを駆使してありえないことを実現する経験を積んでいるのです。それをくりかえし経験することで、少しずつヘンな人になっていくわけです(笑)。
「まっすぐ、中心軸を意識して立つ」とか「見えない球をおなかの前に置いてそれを両手で包むようにして立つ」とか「指先から噴き出した気をまたすぐ吸い込んで体幹に戻す」とか、バカげたイメージ訓練ごときをやっているわけです。こういうのは「賢い男」には耐えられないのですよ(笑)。
何のためにそんなバカげこたことをしなければならないのか。そんなことをくりかえして果たして病気が治るのか、保証できるのか、と。「賢い男」ってホントに救いようがないですよね。
だから、できるだけ相手にしないようにしています。

†日本人の言語生活

幸か不幸か、日本人の生活、言語生活の中には、無数の「心の力」が散りばめられております。「見なかったことにしてくれ」「聞かなかったことにしてくれ」「どうせ騙すのなら、死ぬまで騙してほしかった」「死んだ気になれば何だってできないことはない」「自分の親と思って世話をしてほしい」「戦争は負けたと思った瞬間に負けてしまうのだ」とか、イカれた言葉がどっさりあふれているわけです。「リアルに立脚しない、心の悪いクセ」ですね。そのほとんどが、残念な結果を招き寄せることになりかねないことにお気づきですか。最後の言葉は戦時中の東條英機の発言です。こいつのお陰で何百万人も死んでしまったし、戦後も塗炭の苦しみを味わった。しかしこんな奴をも日本人は許してしまう。その是非は別です。心の力の使い方をまだ誰も知らないというべきだから。

*私は、気功の三要素の一つに「遊心」を据えた。大雑把に言えば、心を遊ばせるとは、イメージを膨らませる、集注する、その気になる、忘れたり切り換えたりする…ことです。重要なことは、気功を終えたら〈我に返る〉ことです。東條はこの我に返ることを忘れた。決意の集注の海で溺れたのです。そして、帝国軍人も大多数の臣民も、心の力の海で何年間も悪酔いしていたのでした。
気功に興じていると、心の力はついてくるのですが、少々、自分に甘くなる。そこを、なんとかしなくてはいけません。

ではまた次回。