・問わず語りの気功談義 ⒉

・問わず語りの気功談義

気功の普及を阻んできたもの                                           山部嘉彦

† 気功に未来はあるか・

気功は日本では半ば忘れられています。若い人なら知らない人も多い。気功の故郷中国でも今では流行っていないようです。世界中見渡しても、流行っている国はありません。なぜ流行らないのか、果たしてこの先流行ることがあるだろうか…という話をしたいと思います。

† なんでヨガは流行ってるの?・

まず、気功が日本で流行っていた時期、なぜ流行ったかを考えてみたいのです。私が気功のどういうところを気に入ったかということとは別に考えたい。…というのは、当時気功の流行と並行して整体とか鍼灸マッサージなど体術治療系も関心を集めていた。気功が流行らなくなってきた今は整体、鍼灸も流行らなくなっている。このことを考え合わせると、何か気功の外側の社会情勢みたいなものが気功の普及を阻んでいる一因と考えられないだろうかと思うのです。
で、整体、鍼灸…と一緒くたにして下火になったと言ったばかりですが、その中で今なお流行っているものがある。それはヨガです。一時どん底に陥ったヨガはここ10年余り、若い女性を中心に大ブームといっていいぐらいです。あちこちにスタジオがある。ヨガはなんで波に乗っているのか。そのあたりにこの問いを解くカギがありそうです。

† マインドフルネスといういかさま・

ヨガだけでなく、意外なものが流行っているようです。マインドフルネスです。マインドフルネスなんて「ソフトイメージに衣替えした仏教瞑想」ですからね。そう、ヨガも「衣替え」したからこそ、流行っている。さあ、そこなんです。短絡的に考えると、果たして気功も「衣替え」すれば流行るか、流行らせるために「衣替え」すべきじゃないのか、となる。
待て待て。ヨガはどんな衣替えをしたか。仏教瞑想はどんな衣替えをしたか。そう、急がないで。

† 気功だって衣替えして流行った・

それを分析する前に気功のこれまでの経緯をざっとおさらいしておきましょう。40年前に登場した気功は、大胆な衣替えが成功したから流行ったと言える。気功も実は伝統的な心身技法(導引・吐納・静坐、それに内丹術など)を衣替えして、ネーミングもこれら全部をひっくるめて〈気功〉として再登場したのが、成功したのです。
一世代前の中国現代気功家たちは、まず古い技法にまとわりついていた隠語群と不穏な理屈を取っ払った。目標を抗老治病保健にフォーカスした。長いのをコンパクトにした。大勢が同時にやれるようなシンプルなパッケージデザインを採用した。
当初は、古いけれど庶民にもよく知られていたポピュラーな素材をリメイクして発表した。第一世代が八段錦とか五禽戯とか易筋経です。第二世代が太極拳をリメイクした太極気功です。同時に脚光を浴びたのが外気治療と自発動でした。これはエキストラなのですが気功の本質を考える上では重要です。これは今扱わず別稿を起こします。
その後、一二がいいのならコレもいいかな?と、禅密功とか香功とか元極功が出てきた。この第三世代の気功群の多くが「家伝」の気功でした。その勢いに乗ってスーパースターが現われます。厳新とか?明とかです。外気治療を装った魔術的な演出で難病をその場で治してしまうようなのが席巻する。これが第四世代で、その最後のスーパースターが洪志祥の法輪功。三と四で気功としてのタガが外れた。
当局はこの動きを叛徒の暴走とみなした。で、法輪功だけでなく穏やかで地味で堅実なのも一挙に全部潰した。そして5年間かけて「健全」な健身気功をリリースしたけど、これは庶民にそっぽを向かれてハズレた。
三と四で、ある意味中国気功業界は懐古的復古的になった。古くて怪しいのが息を吹き返し、結局それが仇になったわけです。ここには中国の独特の問題、共産党問題がありますが、これも大きな問題なので別の機会をもって論じます。

† 身体技法の栄華盛衰・

つぎに日本。1995年のオウム真理教弾圧を機に、ヨガは壊滅的な被害を蒙った。気功も勢いが止まりましたが、ヨガのほうが悲惨でした。オウムと全然関係がないのに四方八方から迫害を受けた。ヨガには修行の要素がありました。オウムの本体が修行でしたから、新興宗教的修行系は世間から白い目で見られた。気功には修行の要素が淡かった(と見られていた)のでそのまま生き残れたと言えます。
4~50年前の日本は、中医学の復活期でした。鍼灸専門学校がドッと増えました。それから野口晴哉は死にましたが彼が遺した整体協会は10万人の会員を擁する大集団になりましたし、その周辺に多くの整体治療系が林立しました。橋本操体法もエアロビクスも元気でした。
しかし、その後、景気の後退に同調するように気功を含めて、これらが全部ポシャッてしまうのです。
ところが、ヨガが装いもあらたにスイッチバックしてきた。しかも古巣のインドからではなくアメリカからやってきて、世界各地で一気にブレイクする。それが今の今まで継続していて、インド政府が国連とつるんだりして毎年国際ヨガデイなんてイベントまでやってる。
その新生ヨガというのは、完全に宗教臭を脱臭してしまいました。瞑想抜き。魂抜き。だから、ただのマットアサナエクササイズです。やさしいアクロバットポーズメドレーです。ホットヨガとか笑いヨガとかバリエーションもあるけど、はっきり言って、ナンの足しにもならない。スタイリッシュなだけ。むしろそれが流行る理由ではないのか。
そしてエアロビクスもそうでしたが、マジメにやりすぎると体を壊すのです。でも、そんなアメリカン颯爽ヨガがブレークしたおかげで、昔ながらの本格地味ヨガをしてきた人たちが小さなサークルを再開したりして息を吹き返したようです。

† キリスト教瞑想はない!・

では、ヨガアサナを裏打ちしていた必須の瞑想はどうなったのでしょう。瞑想はヨガの肝です。オウムも大切にしていました。昔ならヨガ修行に瞑想はつきものでした。瞑想は、有史以来隠然たる存在感を示し続けてきました。自己を見つめる。それは東洋の叡知ですからね。
だから、と言っていいと思うのですが、瞑想は一神教世界にはない。ユダヤ教にもキリスト教にもイスラム教にも、瞑想はない。祈祷があるだけ。神に祈るので、敬虔な生活はあるけれど、自分を律する瞑想はない。ヒンドゥにもジャイナにも仏教にも道教にも瞑想があります。こうして見ると瞑想はいわば非一神教的宗教の必携付属品と言えるのではないでしょうか。
ところが、アメリカ人はヨガで成功した脱臭工程を仏教瞑想にも適用して、看板をかけ直し、宗教臭を一掃してリリースした。このマインドフルネスは、自分から所属する会社や組織の一員として忠実で従順になるための奴隷精神の涵養のために作られたと言っていいほど、過剰に内省的にできています。

† スポーツジムの健康法・

いったい、何が起こったのでしょう。
中国で気功が弾圧されたのは2回です。1966~76年の文革期と2000~05年のアフター法輪功期です。文革後は気功が復活して大流行した。日本にもアメリカにもヨーロッパにも波及しました。法輪功弾圧後は違いました。公園と公共施設から気功が一掃されてしまったあと、健康を求める人たちは都市のあちこちにできたばかりのスポーツジムに吸い込まれていきました。
この、スポーツジム産業はアメリカ発で、その経営ノウハウを確立させたこの時期に世界中に爆発的に普及しました。そう、これは世間のストレス解消ニーズに応えるリフレッシュ産業なのです。譬えていうと、ジャンクフードでぶくぶくに太らせておいて汗を流して痩せられるってスゴイと思わせる装置です。24時間営業とかスキマ時間にちょっとだけとかマーケティングを駆使して顧客を集める。日本にも入ってきてたちまち施設が乱立状態に。儲かっているんでしょう。日本では今やフィットネスジム1000、カーブス2000箇所。これって、ホントに健康産業なのかな。
気功にも太極拳にもヨガにも、理論があります。人間学がある。しかし、スポーツジムにもカーブスにも発散とトレーニングの概念しかない。というより人間学なんて不要な、細切れ選択時代の寵児なのではないか。
そう。人々は、この30年のあいだに、自分で考えることをやめ、すばやく選択して前に進む行動原理に乗り換えて生活することにしたのではないか。そうすることによって自他を差別化し、目立とう精神を満足させている。
私の見るところ、その行動原理の土台になっているのが、PCのOS的プログラミングネットワークに象徴される誘導思考(アルゴリズム)です。最初に必要なのはキーワードだけで「あなたにぴったりのトレーニングメニュー」が提供される仕組みです。

† 思考の反革命としてのAI情報・

人間は、長い間、思考は他者との対話問答を基調として鍛えてきました。他者は(自分から見ると)、自然環境を含めてそれぞれ人格を持っていながら確信を持てず不安定で揺れている存在ですから、それと対話する自分も揺らぐ。その関係性を調整しながら(学びながら)人は自分らしさを紡いできたわけです。
PCの普及(端的にいえばスマホの普及)は、その関係性を解体してしまいました。スマホ情報は個々の生活に福をもたらすツールであったはずなのに、今や日常的な思考の素材として機能している。しかも一見安定した共有情報としての拡散波及効果を増幅させています。逆に言えば、利用者の本来の思考が欠落しているのに気付けないという現象が生じているわけです。
自他の関係性が揺らいでいることは問題ではない、ということは、共通感覚の安定によって支えられているから揺らいでも大丈夫だということです。感覚の安定が思考の安定の基礎になっている社会。世界各地の近代の成立は実はこの共通感覚=コモンセンスによって裏打ちされていたのです。
感覚の安定を欠けば、コモンセンスは成り立たない。コモンセンス抜きの共有情報だけだと、表現の自由を笠に着た思考の林立乱立状況が露出するのは当然です。

† コモンウエルスのもとはコモンセンス・

英語のコモンセンスは、日本語では「常識」と訳されてきましたが、共通の認識は共通の感覚を土台にしている。人それぞれに常識に到る道筋というものがある。そうして得られた自分の常識は既成の常識とそれほど違わない。気功は、その土台としての感覚をより洗練させて、心身の常識を更新させる力を育む「学び」なのです。自分で考えろ。感覚を磨け。自分で工夫しろ。
ところが、スマホ的選択生活には感覚(コモンセンス)は不要なのです。どんなに鈍くても選択を繰り返せば何とかなる。だからどんどん鈍くなり、どんどん身勝手になる。その齟齬軋轢をまたスマホがフォローしてくれるわけです。

† 世間のための健康に迎合するな・

どうも、気功愛好者は、いつのまにか、選択上手な人に有利なAI時代の「お荷物」になってしまったかのようです。もしかしたら邪魔臭い奴らと思われて掃討対象になっているのかも(笑)?
感じるなんて主観だろ。数値で示して分類すれば? 自分で考えるなんて時代後れだ、アンタに相応しい健康法なんか、たくさんある選択肢の中からサッと選べばいいだけなのに、と。
目の前に選択肢がぶら下がっている時代。その選択肢は選ぶ人にとっては神からの下賜と同じですね。だから選択肢の前に整列させられているわけです。救援物資をタダで配る配給センター前に行儀よく並んでいる難民みたいに。
気功は傍目には「ゆっくり体操」に見える。BGMをつけてスピードテンポを標準に合わせさせる気功もありますが、ほんとうは、自分の心身状況に合わせて自分でスピードテンポを調えるべきものです。心身状況に合わせるということは、動きの快、姿勢の快を保つために、感度の繊細さを鍛えていかなければならない。つまり自分自身と対話できなければ気功にならない。だから気功を介して得られる健康は、与えられるものではなくて、生ずるもの、育むもの、自らに与えるものである。
そもそも健康はそういうものなのではないか、なのです。
そこでようやく気がつく。健康を願っているのは健康を損ねている人、心配な人…ではなくて、社会(世間)なのではないかと。社会が、病気や老衰の人だらけだと困るから、税金を投入して、病気にならないでくれ、というよりあまり病院にかからないでくれ、と。
しかし、一時期、自治体などが気功に期待を寄せて、気功を覚えてもらって毎日気功を励行する健康社会を作れないだろうかと考えたのでしょうが、たぶん、気功はそう簡単ではない(避難所で配る「少しは腹の足しになる弁当」とはちがう)ようだと気がついたのでしょう。
気功の普及を阻んできたのは、《答えを外に求めて外から得られるシステム》の隆盛という環境のせいじゃないかと、思う今日この頃であります。